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虎穴に入らずんば
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初 蝶

藤堂 夏生
2012年4月17日刊行
A6判(文庫判) ソフトカバー
78頁 

オンデマンド印刷
句集 私家版

 


                     
 文庫本サイズで少頁ながら、句集としてのクオリティも追求。文庫本にすると表紙が安っぽくなるところを、フランス折りの体裁にして表紙を内側に折り返して上品な仕上りを醸し出している。

 作品は、極めて機知(ウィット)と英知(ソフィア)に富み、巷の玉石混淆の作品群にあって、類い希なる珠玉の数々は、恐れ入谷の鬼子母神の風情である。


◆柳沼裕之氏による解説が面白いので引用します。

 山本健吉は俳句の三本柱として「挨拶」「滑稽」「即興」を挙げる。元来俳句とは俳諧の句。即ち滑稽な句という意味を持つ。滑稽は俳句を俳句たらしめる大事な一要素なのである。一句ずつ見てゆきたい。

「麦踏のもとに戻らぬ背の曲がり」
麦を踏む人を眺めていると、踏んで行く麦を見ながらの作業であるため、大体後ろ手の前屈みの姿勢になる。年を取ると作業が終ってもなかなか前屈みのまま元の直立に戻らないのである。滑稽ながらペーソスがある。

  「にんげんが犬に曳かれて青田道」
 ペットブームとかでリードを着けて犬を散歩させる人が多い。室内で飼われている、或いは玄関先に繋がれている犬たちにとって、散歩は唯一のストレス発散のとき。飼い主を引っ張らんばかりに走り出したりする。犬が人間を曳いているのだ。一茶に「春風や侍二人犬の供」がある。

  「靴下の穴が気がかりクリスマス」
 説明するまでもないが、枕辺に吊した靴下にサンタクロースがプレゼントを置いていってくれることを想定した作品。靴下に開いた穴からプレゼントが零れてしまうことを心配するということより、靴下の穴が恥ずかしいと取った方が滑稽さが増すというものだろう。

  「達磨さん転んでどんど炎立つ」
 どんどは左義長ともいって、正月に行われる火祭の行事。松飾や注連飾などを燃やすが、達磨なども放り込まれる。これはその場面である。くべられた達磨が燃え崩れたとき新たに炎があがったのである。鬼ごっこの「達磨さんが転んだ」を踏まえた作品。

  「春風の荷台に豚の尻二つ」
 春風駘蕩。一見長閑な感じがするが、豚の命運が暗示されていることも見過ごせない。滑稽を装いながら単なる滑稽だけの作品でないことは明らかだ。

  「マネキンがサングラスしてわれを見し」
 夏到来のショーウインドーにサングラスを掛けたマネキンがいる。作者はそのサングラスのマネキンが自分を見ていると取った。サングラスを掛けている人と出会うと、どこを見ているのか皆目見当がつかないものだ。マネキンにしてもそう。ひょっとして気があるのかも。マネキンが人間になったおかしさが描かれている。

  「生身魂もはや問答なき軽さ」
 広辞苑によれば、生身魂とは「陰暦七月の盆の頃、生存している父母に祝物を贈りまたは饗応する儀式・行事」とある。長寿自体は喜ばしいが、「問答なき」はやはり淋しい。問答が全くないというより、受け応えが頓珍漢なのだろう。「軽さ」というのはそういうことかもしれないが、それで幸せと言えないこともない。

  「先達の足の迅さよ探梅行」
 探梅行における先達というからには、俳句などを物にするその道の先輩であろう。せっかちというより先達ゆえに場所を知っていて早く案内したいという親切心による足の速さと解釈できるが、無風流で早く仕事を終えたい単なる案内人と取ることもできる。どちらにしてももう少しゆっくり吟行したいのにというじれったいおかしさ。

  「水仙や水琴窟のきんこんかん」
 水琴窟の傍らに水仙が咲いているという取り合わせの句であるが、水琴窟の音をもろに「きんこんかん」とした不作為的な表現におかしみを感じる。音声学的には五つの「ん」が耳に心地よい。

  「鳥威逆さに黒衣吊されて」
 この句の眼目は「逆さに」であり、普通に吊されているだけでは滑稽は生じない。人為的にされたとすれば制作者の遊び心であり、それをおかしいと感じ取った作者は罠に掛かったことになる。

 ところで、夏生さんには身近な動物や昆虫を詠んだ作品が少なくない。それも、いわゆる感情移入することなく客観的な目で動物たちを追っている作品が多い。やはり、諧謔のその根底にある冷静さと相通ずるものがあるといっていいだろう。「半蔵門俳句会記録集Ⅱ」に『鳥獣四季』と題し、鳥獣虫魚十五句、「半蔵門俳句会記録集Ⅲ」(平成二十年三月発行)には二句載せているが、この自選句集にもいくつか再録されている。きっと故郷青梅の少年時代の回想もあるのだろう。今はそのふるさとに戻り田園生活を満喫されている。

恋猫のつひにあらそふこゑとなる
その影もおなじたゆたひ春の蝶
蟻うまれ蟻のつとめがはじまりぬ
夏蝶の休みしところ秘密めく
初蝶の空に迷路のあるごとく
キオスクの小さな職場夏つばめ

 動物を詠んだ作品は、以上六句が再録されているが、このほか自選集では次の句が注目を引く。

囀りの中のさへづり籠の鳥
尺蠖の虚空に探り入れてをり
秋蟬の落ちて辞世はGとだけ
かまきりのなにかまじなひするかたち
噴煙白うして火の国の赤とんぼ
街路ゆく杖つく人に秋の蝶

 この十二句の中に蝶の句が四句ある。蝶は関東以南では、ほぼ四季を通じて見られるので元々春の季題の「蝶」に対して、「夏の蝶」「秋の蝶」「冬の蝶」と季節ごとに季題として掲げられている。俳句はこれらの季題の違いを明確に詠まなければいけない。「夏の蝶」でも「冬の蝶」でも作品が成り立つということはあってはならないのである。その点この四句はそれぞれの季節における蝶の生態をしっかり捉えていることがわかる。
 その春初めてまみえるのが「初蝶」。生まれたばかりで飛び方がぎこちないと作者は見たのであろう。それを「初蝶の空に迷路のあるごとく」と感性ゆたかに捉えた。一方「その影もおなじたゆたひ春の蝶」は、春の蝶のゆったりした飛び方を捉えている。夏の蝶ならやや激しく、本体と影とがばらばらのような飛び方をするであろうし、冬の蝶なら逆に影さえ生まない静かな飛び方をするであろう。
 蝶もまた羽を休めるときがある。「夏蝶の休みしところ秘密めく」の蝶は、黒揚羽か烏揚羽と断定したい。黒い蝶だからこそ秘密めくのである。
 四句の中では「街路ゆく杖つく人に秋の蝶」の「秋の蝶」が人によっては動くと言うかもしれないが、秋の蝶には「とにかく「秋の」にさかりをすぎた名残りの哀しさを感ずるわけである」との解説がある。(平井照敏編「新歳時記」)
 この哀しさは杖をつく人の人生に相通ずるものがあると作者は見たのであり、季感は磐石である。
  「囀りの中のさへづり籠の鳥」は、対比の妙が際立っていて、哀れを誘う。自由に梢の影に囀り合う鳥たちにつられて囀り返すのは自由のきかない籠の中の鳥。「あなたの呼ぶ声忘れはせぬが出るに出られぬ籠の鳥」。大正時代、一世を風靡した歌謡曲とは無関係である。
  「秋蟬の落ちて辞世はGとだけ」は、下五の措辞に賛否がありそうだが、落蟬の末期の鳴き声をアルファベットの一字に置き換えて表現したのは、夏生俳句一流のエスプリと遊び心にほかならない。「じいとだけ」「ジーとだけ」と比べてみるとその面白さは一目瞭然である。
  「蟻うまれ蟻のつとめがはじまりぬ」は、突き放したような言い方の中に慈愛が感じられる。蟻はいっときもじっとしていない。せかせかといつも忙しげに活動している。それが蟻の習性なのだということを認識しつつ作者は心の中で「ご苦労さん」と呟いている。
  「キオスクの小さな職場夏つばめ」は、直接詠まれていないが、キヨスクできびきびと接客するおばさんの姿が髣髴としてくる作品である。おばさんと夏燕はせわしすぎて交流しないが、そのきびきびとした動作は飛び交う夏燕の敏捷さと通い合うものがある。「小さな職場」が言えそうで言えない措辞である。

本文より抜粋

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